後顧録

青年の雑記帳

不言実行?

自戒のために書く。

不言実行が本当の美徳で、有言不実行はダサい。らしい。

…本当か?

たしかに有言不実行、言うだけ言ってやらないのは問題ですよ。笑

ただ不言実行を無批判に美徳とするのは如何かなと思う。

以下は自分の考えというより、人づてに聞いた話から着想を得た考え方だけど、、

不言実行といって誰にも何も言わないのは自分に保険かけてるだけ。宣言して、自分を縛って、行動しよう。口に出すことで周りが助けてくれるし、周りの目が自分を伸ばす”

この考えは自分に近いと思った。有言実行派ですね。

真摯にやってみた結果、できなければ仕方ない。そんなことは、失敗してから考えればいい。目標は形にして、誰かに伝えて、色々な意見を取り入れるのは悪くない。

 

一方で、こんな話を聞く。

本当に何かに真剣な人は寡黙で、人の見てないところでコツコツ努力する。ベラベラ語らない。真剣な人は言葉ではなく行動で語る。

これも真理だと思う。ただ周りの不言実行型を見ても、一切何も語らない訳ではない。むしろ情報を得ることには貪欲で、必要なときは自分を開いている。

有言実行も不言実行も、本質は同じではないかな。

 

できないことは言わない。

言葉には責任を持つ。

必要以上にベラベラ語る時間があれば、努力しよう。

消防団のこと

地方に移住すると、狭いコミュニティに拘束される。

田舎独特の濃密な近所付き合い、共有地の清掃、村八分消防団、etc.

この辺の要素が、若者の田舎暮らしを阻むらしい。

本当にそうかな?

地方の街にいた頃、少しの間、消防団をやった。自分には楽しく、充実したものだった。少なくとも周りの団員を見る限り、消防団活動で暮らしが居心地悪くなるとは思えない。

山村漁村とはまた事情が違うけど、地方の消防団に身を置いた者として、

”なぜ消防団活動は「田舎」の旧習の象徴として槍玉に挙げられ、時にバッシングの対象になるのか? ”

発信したいと思った。特にネット界隈でそんな風に感じる。新人団員の乏しい経験から考える。

0.消防団でやったこと

 

消防団では楽しいこと辛いこと、短い間に色々教わった。それはそれで記事にする機会もあると思うから、今回は割愛。

1.地域差

消防団は、地域差による評価の違いが大きい。東北の山間部出身の同期は、身内にも消防団員がいて、活動の概要も知ってた。その村落には常備消防(本職のいわゆる消防士さん)がいなくて、消防団が防火や防災を支えてる。

対照的に、千葉の知り合いは、消防団というものが現存して活動してることさえ、知らなかった。消防団について話を振ってみたら、怪訝な目で

「え、それボランティア??給料も出ないのに消防団なんかに入る人がいるんだ?」

と。。さすがに、この2人は極端な例だけど、地域によって、これほどの差がある。操法大会にしても、参加できる者が参加して技能向上を目指す班から、全国大会常連の班まであると聞く。これも地域差が影響してる。

2.偏見

消防団に限った話じゃないけど。実情を知らない方が偏見で語ることが多くないかな。もちろん、部外者や、都会の市民の視点も要る。世間の常識を無視して内輪で勝手にやっていたら、いずれ地域に根差す消防団の未来はなくなる。

ただ、必要以上に叩かれてると思う。

災害対応、行事運営など、消防団にしか担い得ないことがある。警察には警察、常備消防には常備の、消防団には消防団の役目がある。消防団は地域の人に近い。

学生や女性の組織もある。災害時には出動する。地域差もあるけど、自分の知る限り、そんなに拘束はきつくない。先輩も本当に可愛がってくれた。忙しいそうだったのは操法のときくらい。

消防団批判には、批判する側の問題も大いにあると感じる。

”田舎叩き”の材料にするのではなく、現実を、多くの人に見てほしい。

慕う人から離れて

10代のころ、心底から慕う人がいた。

自分がどんなに弱く、だらしない所を見せても、優しく受け止めてくれた。

その人といるだけで活力が湧いた。

 

気がつくと、その人の言葉が自分の行動を全て規定するようになった。

「お前がB大学に入ってくれたらなー」と助言されれば、B大学を目指した。

「お前これどう思う?」と言われれば、自分の用事を後回しにして、その人の為に全ての時間、思考を割いた。

それは慕情ではなく依存だと気付かなかった。

 

ある時から、その人は自分と距離を置き始めた。

それに気付いたとき、絶望の淵に立った。あれだけ信じて、理解してくれた人が、振り向いてくれなくなった。

しつこく、すがるほど、邪険にされた。自分が価値のない存在になった気がした。

 

信仰や愛情は人に温もりを与えてくれるが、それが全てではない。

相手がどんなに大事な存在、特別な人であっても、その人は自分の代わりを生きることはできない。

自分は、自分しかいない。

 

生きていくのに承認欲求は必要だけれども、承認欲求によらない自己愛を得たとき、自分で自分を理解し、自分の価値を規定できる。もっと自由になれる。

それが本当に自分を生きることじゃないかな。

もし自分と同じ、強い承認欲求で悩む人がいたら、考えてほしい。

唯一無二の価値尺度などというものはない。

メディアの記事が両論併記をするように、大事な点検には複数の作業員があたるように、2つ、3つと違う価値観に触れていくなかで、自分で自分を縛ることから逃れられるかも知れない。